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「富士山」読書4

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午前中は曇っていて気温が上がらず寒かった。どうしてか胸やけがして胃の調子が悪い。昼食は今朝、娘から貰った鯛の粕漬けで摂る。六郷から来たものを娘が焼いたもの。寒くて外に出る気が起きないので読書に励む。
25日に続いて、中公新書の「富士山」第4章を読んだ。第4章のテーマは、富士山を見る近代のまなざしー幕末から明治へとしている。1はケンペルの見た富士山と言う見出し。江戸までのオランダ商館長参府に同行したドイツ人医師ケンペルは1692年に世界中で一番美しい山だと記録している。2は司馬江漢の描いた富士山と言う見出し。1815年、写真のような西洋油絵の技法で久能山から見た駿河湾の大観に魅せられた。3は南画の富士山と言う見出し。池大雅の富士山は、写真、写実がものの真髄を表しえない南画の主張を見せている。蕪村も同じ。4は葛飾北斎における富士山と言う見出し。富嶽三十六景の多くが庶民とともに描かれており、富士講によって富士登山を一生の念願としている庶民と重なって反権力の象徴を含んでいる。5はオールコックの富士登山と言う見出し。イギリス公使館の初代公使オールコックは、万延元年(1860)西洋人で最初に富士登山をした人になった。江戸幕府は居住の自由は認めたが行動の自由は認めていなかった。幕府が反対する理由の一つとして、慣習的に下層階級の人々だけにかぎられている巡礼に出かけることは、ふさわしいことではない、と言うことだった。富士登山は、富士講の人々によって独占されていて、江戸、関東の庶民のものだった。また、外国人に対し、汚い所は見せたくないと言う伝統的感覚のゆえでもあった。6は、明治維新と富士山信仰と言う見出し。徳川幕府は富士講を邪教視してたびたび禁令を出していた。明治政府は廃仏毀釈によって、富士山の仏教的な要素は壊滅的な打撃を受けた。富士山の本体はそれまで浅間大菩薩と呼ばれていた。典型的な神仏習合の名称だった。八幡大菩薩、浅間大菩薩と言う名称を禁止した。富士講は同時に、江戸の庶民にとっては何年に一度しか行けない富士登山を実現させるための、積立金を管理する経済集団であり、10日もかけて徒歩で旅をする巡礼旅行団体であった。しかし、近代的な交通機関の発展によって富士講の基礎が切り崩されていく。7はリゾートとしての富士山と言う見出し。明治時代富士山のホテルと言えば精進ホテル以外は考えられなかった。明治の終わり、イギリスの写真家ハーバート・G・ポンティングは「精進湖と霊峰富士の山麓の風景を見るだけでも、遠く日本まで旅行する値打ちがあるだろう」と書いている。イギリス人ホイットウォーズは富士山が最も美しく見える場所を探し求めて1895年に精進ホテルを建設。
やまなみの湯へ出かける。甲府地方気象台は今日、満開宣言をだした。20日に開花宣言をしたので、それから10日もかかっている。午後からは少し日が出て暖かくなってきた。30日に考古博物館の丸山古墳から銚子塚古墳を望んで撮ったものをアップする。
by kittajp | 2009-03-31 16:02 | アルツハイマー病
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