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カラ台風

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台風4号で、中央線、身延線は止まったが、大したことはなく、午前中には雨もやんでしまった。カラ台風に近い。午後から、戸外の空気を吸うためのドライブを兼ねて、ホームセンターくろがねやへドライブ。時々日が射すと蒸した風邪が入ってくる。今日の河口湖は曇っていて富士山は全く見えない。5日に撮ったラベンダーキャットミントをアップする。
DVDは『硫黄島からの手紙』を見る。 2006年アメリカ、第79回アカデミー賞の対象作となり、作品賞・監督賞・脚本賞・音響編集賞にノミネートされ、音響編集賞を受賞した。東京から南へ1250km。日本の最南端に近い太平洋上に、東京都小笠原村硫黄島はある。面積22㎞2、周囲22km、山手線一周ほどもない小さな島。その島で、62年前、太平洋戦争末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じた戦闘の物語である。1945年2月19日にアメリカ海兵隊の上陸が開始され、3月26日に日本軍の組織的戦闘は終結した。日本軍は20,933名の守備兵力のうち20,129名が戦死した。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。太平洋戦争後期の島嶼での戦闘において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った唯一の事例であった。
映画は、2006年、硫黄島を訪れた日本の遺跡調査団の洞窟での調査で始まる。そこで、地中から発見された数百通もの手紙。それは、62年前、この島で戦った男たちが、家族に宛てて書き残したものだった。
戦況が悪化の一途をたどる1944年6月、ひとりの指揮官が硫黄島に降り立った。陸軍中将、栗林忠道(渡辺謙)。大使館付け武官として、アメリカ留学の経験を持ち、それゆえにアメリカとの戦いの厳しさを誰よりも知り尽くしていた男。本土防衛の最後の砦とも言うべき硫黄島の命運は、この男に託された。着任早々、長年の場当たり的な作戦を変更し、部下に対する理不尽な体罰をも戒めた栗林に、兵士たちは驚きの目を向ける。今までのどの指揮官とも違う栗林との出会いは、硫黄島での日々に絶望を感じていた西郷(二宮和也)に、新たな希望を抱かせる。従来の常識にとらわれない栗林のやり方は、古参の将校たちの反発も呼んだが、一方で頼もしい理解者もいた。そのひとりが、ロサンゼルス・オリンピック馬術競技の金メダリスト、「バロン西」こと西竹一中佐(伊原剛志)だった。
硫黄の臭気が立ち込める灼熱の島、食べ物も飲み水も満足にない過酷な状況で、栗林の指揮のもと、掘り進められる地下要塞。島中に張りめぐらせたこのトンネルこそ、米軍を迎え撃つ栗林の戦術は、これまでの海岸で迎え撃つ戦術と異なるため多くの反発を受けながら実行する。
1945年2月19日、ついにアメリカ軍が上陸を開始する。その圧倒的な兵力の前に5日で終わるだろうと言われた硫黄島の戦いは、36日間にもおよぶ歴史的な激戦となった。死こそ名誉とされる戦争の真っ只中にあって、栗林中将は兵士たちに「死ぬな」と命じた。最後の最後まで生き延びて、本土にいる家族のために、一日でも長くこの島を守り抜け、とこれまでの玉砕戦術と違う命令を出す。このため栗林の戦術に反発し、軍人らしく玉砕を貫こうとする伊藤中尉(中村獅童)の反逆にあう。憲兵隊のエリートから一転、過酷な戦地へと送り込まれた清水(加瀬亮)、戦場にあってなお国際人であり続けたバロン西、まだ見ぬ我が子を胸に抱くため、どんなことをしても生きて帰ると妻に誓った西郷、そして彼らを率いた栗林もまた、軍人である前に、家族思いの夫であり、子煩悩な父であった。これらのエピソードを交えながら、最後の総攻撃が行われる。栗林中将は白襷をかけて先頭に立って突っ込む。傷っを追い動けなくなって、西郷に遺体を埋めることを頼んで拳銃で自決する。その前に、集団で手榴弾で次々に自決する人だちの姿も痛々しい場面だった。暗い時代だった。もったいない命の浪費だった。
by kittajp | 2007-07-15 16:39 | 肺気腫
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