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千成寿司・「ぼんやりの時間」

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今日も暑い日が続く。10時には家の中でも汗が出てくる。お腹の調子が悪いが、常備薬を飲まなければならないので、無理してご飯を食べる。DVDを見る。午後からは町立図書館へ涼みに行く。夜は、甲府の千成寿司へお寿司を食べに行く予定。甲府でカウンターの寿司を食べるのは10年ぶり位になる。懐かしくなって行く気になったもの。甲府では老舗のお寿司屋さんで、女房が元気だったころは良く行っていた。カウンターでの寿司は東京では銀座の久兵衛に良く行っていたが、久し振りだ。体調は良くないが、娘に約束してあったので行くことにした。「ぼんやりの時間」を読んだのでアップする。私の性格に良く合っている本だと思った。辰濃和男著 で岩波新書に収められている。森や闇や静けさを失った人間は、当然のことながら、ぼんやりできる空間、時間を失い、とめどない心の打撃を受けている。心の破壊に追いつめられている。串田孫一は「ぼんやりしているのは人間に非常に大切な貴い時間である。必ず貯えられているものがある」とぼんやりの効用と仕方を紹介している。ゆったりとした気分になり、肩の力を抜き、深呼吸をしながら、ぼんやりしていることが、快い状態になる、と言う。池波正太郎は散歩の効用を語る。散歩していて、何かの拍子に、パッと仕事の構想が浮かんでくる。くる。頭の中を一瞬通り過ぎる幻影のように。と言う。歩くこと、ぼんやりする事は、ときに、信じられないほどの力で、人に「安らぎ」を与えてくれる。ぼんやりしているとき、心が解放されている。心が解放されていると、空は本来の空として見えてくる。深沢七郎は「ぼーっとして生きる」ことが好きだった。「とにかくただぼーっと生きることだよ。とにかく漠然と生きることだよ。川の水が流れるように、何も考えず、何もしないで生きることことこそ人間の生き方と思うね。」と言う。無駄な時間をいくら重ねても何の稼ぎにもならない、何の稼ぎにもならないことに時間を費やすのは愚の骨頂ではないか。でも、一見無駄に見える時間のなかに、実は大切な役割を果たしているものが沢山ある。街をぶらつく。夕焼けを眺める。虫の声を聞く。雲を見る。星を仰ぐ。雑談をする。そういう無駄に見える時間を重ねるところに、生活の厚みとか深みとか、そういうものが育ってくる。沢山の無駄な時間の集積こそが、実は、暮らしを豊かにする潜在的な力を持つ。「人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそって、なくなってしまう。人はそれぞれの居場所を持っている。そして、それぞれのさらに、いい居場所を求めて生きている。たった独りで、長い間気持良くぼんやりできる場所であれば、そこはもう、あなたの居場所だ。人は日常の世界から非日常の世界に空間移動することで、心身の欝屈に風穴をあけることができる。居場所とは「質のいいぼんやり時間」を約束してくれるところだ。また、ぼんやりとした時間を過ごすために、静寂と温泉の効用をを説く。最後に、「ぼんやり」と響き合う一文字として、闇、独、閑、懶をあげて、それぞれコメントしている。例えば、怠についてバートランド・ラッセルの「怠惰への賛歌」と言う論文を紹介している。少数の特権階級は他人の労働のおかげで沢山の閑な時間を享受している。自分達だけの快適な閑を守るためにも「働く事は大事な事」といい続けてきた。働く事でくたくたになっていては、楽しみは受け身のものになる。仕事に精力を吸いとられたものは、スポーツの試合を見る、刺激の強い映画を見る、といった受け身の楽しみにすがる事になる。しかし、職を探している人々と、長時間労働でくたくたになっている人々、心に欝屈したものを持っている人々にとって、ほんの少し閑な時間を持つこと、あるいは、ほんの少しのぼんやり時間を持つことは現実には難しい。この本を読んで、もっともな理論だと共感した。しかし、私は、もともと、ぼんやりの人間なのでなおさら納得できる。18日に清里・萌え木の村で撮ったメリーゴーランドをアップする。ここの担当者は知り合いだったが最近合わない。
by kittajp | 2010-08-21 11:43 | 八ヶ岳
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